④集団的自衛権の行使問題


現行の日本憲法においては、集団的自衛権の権利は存在するが、行使は出来ないという政府の解釈となっている。しかし、行使できない権利と言うのは日本語のレベルで実質的に破綻している。今後、日本が行なわなければいけないのは憲法の解釈論ではない。本質論として集団的自衛という概念を、日本国が国家として受け入れるかどうかである。

日本は法治国家である限り、憲法の定めによりその行動を縛られる事は本来的に正しい事である。しかし、そもそも憲法は国家の必要に応じて修正、改正されていくべきである。代表的な国としては、日本と同じ敗戦国であるドイツにおいても戦後の憲法改正は数十回行なわれている。日本よりも憲法改正の条件が厳しいと言われ米国においても、数十回のレベルで改正されている。言い換えれば日本は、この世界が激変する戦後の国際社会について国家の方針を一度も変えていないと言う事である。

この事実は、日本という国家が環境の変化に対していかに反応していないかと言う事を如実に表している。特に、米ソ冷戦が終了して世界が多角化しつつある。インドとパキスタンが核を持ちNPT体制の脆弱さも表面化している。北朝鮮もしかりである。さらに、もともとの核兵器保持国家であった中国とロシアの経済的躍進も著しい。さらに、これまで冷戦により表面化しなかった地域の民族・宗教紛争が発生しており、特にイスラム原理主義者によるテロ活動も活発化している。このような不安定化した国際社会において、他国と協力して自国の平和を守ることのみに依存する事が、日本にとって望ましいのかどうかと言う事である。

他国と協力する事によって、これまで敵視されていなかった国からの攻撃の対象とされる可能性も指摘されている。日本はどことも協力しないで、平和に国際社会で存続していくと言う考え方自体が問題なのではないだろうか?明確に集団的自衛権を行使できる憲法に改正したところで、すぐにその権利を行使しなければいけないと言う事ではない。個別事例ごとに明確に議論し、その権利を行使していけば良いのである。確かに有事の際にゆっくりと結論が出るまで議論をしている暇はなく、見切りで権利行使につながる可能性は完全には否定出来ないかもしれない。しかし、それは集団的自衛権の行使を考える上で、決定的な懸念とはなりえないと考えられる。

日本が向かうべき方向が、自国のみの繁栄と安定であれば、集団的自衛権は必要無い。しかし、日本は既に国際社会にどっぷり漬かっており、国際社会の行方に対する義務と責任と負う決断をすべきなのである。そのひとつの方法として、集団的自衛権の行使を真剣に考えなければならないと考えられる。