<Ⅰ.憲法(内閣府・法務省・与野党・国民全体等)>

② 平和条項9条について (2/2)


3.集団的自衛権の行使の明確化については、これまでも議論があるように権利はあるが、行使は出来ないという政府見解は見直す必要がある。確かにこれまでの経緯としては、集団的自衛権の行使を安易に認める事により、自衛隊の発動に歯止めがかからなくなるのではないかという危惧があったのは事実だと思う。そういった意味で、この非合理的な解釈も平和を望むが故の苦肉の策だったと思われるし、それなりの意味があったと思われる。ただし、これら解釈論に終始することにより本質として集団的自衛権の定義や行使の方法論について議論が深まらなかった事は弊害だったと思われる。日本は、日米同盟と国連中心主義を安全保障の中心としていることを踏まえ、国連軍の中での集団的自衛権と、日米同盟の中での集団的自衛権と明確に区別したうえで、整合的に議論する必要があると思う。 
国際連合は、戦後の米ソ冷戦時代において機能不全に陥り、その有効性に大きな疑問符がもたれた時期があった。冷戦が終結した現在においても、さらなる国連改革が叫ばれ改革途中の組織である。日本が国連主義を掲げた場合に、そもそもとして国連の完全性や平等性が担保されている訳ではなく、国連の下す判断が必ずしも世界全体として平等であり、確実な正義がある訳ではないと言う問題は存在する。しかし、そうは言っても国連は世界全体にとって主張することの出来る可能性を持った唯一の機関である事は紛れも無い事実である。また、日本が国連に対する影響力を支出額と同等程度には持つようには努力し、平和国家としての意見を大いに表明することは重要である。その上での国連主義ならば非常に有効であると考えられる。それに加えて、個別案件ごとに日本国としての明確な意見を持ち、集団的自衛権の行使という権利を使用するかどうかを判断すれば良いのである。もうひとつの日米同盟に基づいた集団的自衛権の行使についても、難しい問題が山積である。なぜなら日米同盟と言っても、そもそもとして日本の目的である日本国の安全とアジア極東の安定と言う事と、アメリカの目的である世界全体へのアメリカ軍のプレゼンスの維持・向上とは根本的にレベルが違うからである。この事は、有事の際にはきわめて明確に発現するであろうし、平時であるうちにより深い議論が早急に望まれる。最も重要なのが、極東条項の判断である。日本は何をする意志があるのだろうか?台湾問題には、関与する覚悟があるのだろうか?すでに、台湾問題に日本やアメリカが過剰に干渉する事があるとすると、理論的には日本にも、アメリカにも核ミサイルで威嚇し、その干渉を諦めさせることが可能である。アメリカにその覚悟があったとすると、日本はその覚悟があるだろうか?北朝鮮への対応としてアメリカが強硬手段に出た場合に、どこまで日本はアメリカに協力するつもりなのだろうか?こういった議論は、防衛庁や内閣内では詳細に議論されているものと期待するが、その議論を整理して国民に示すことが必要なのではないかと思う。その際には、周辺諸国(中国、韓国、ロシア、台湾、北朝鮮も含む)への説明が必要と思われる。日本が平和国家を本当に実現するには、言論をもって自衛の論理を説明するしかないと思われ、その努力は惜しむべきではない。



4.非核3原則 改め 新非核3原則「MD積極導入、NPT体制維持努力、技術保有」への移行を推奨したいと思う。これまでの3原則「作らず、持たず、持ち込ませず」は、唯一の被爆国である日本ならではの主張ではありとても意義深いものと思う。ただ、この原則では、自分の国は「作らず、持たず、持ち込ませず」と言っているに過ぎず、世界平和を希求する国家の原則としては少し物足りない気がしてならない。繰り返すが、もちろんこの原則自体を確実に達成する事は非常に意義があり、周辺国に対して明確なメッセージにもなっていると思うし、非常に評価しているのである。ただ、この原則論は堅持しつつ、それに反しない範囲での、新たな3原則「MD積極導入、NPT体制維持努力、技術保有」を推奨したい。まず、MD積極導入であるが、これは事実として着実に進んでいる。MDの確立は多額の予算を導入した核武装、ミサイル開発を意味の無いものとするため、その開発意欲を減退させる効果があるとされる。一方、更なるミサイル技術の高度化、核弾頭数の量産化につながるとの懸念もあるのも事実である。ただし、比較的財政状態が苦しい国家が限られた予算の中で核武装、ミサイル開発により威嚇外交を推し進めようとした場合に対する抑止力としては効果があると思われる。次に、NPT体制の維持努力である。従来から日本は、NPT体勢を支持してはいるが、国際的な場で主導的に主張しているとまでは言えない現状があると思われる。確かに日本は、アメリカの核の傘の下に居るため実質的に核の抑止力を保持していると考えられることに対する遠慮のようなものが日本にはあるのかもしれない。しかし、その日本がNPT体制を主張する事は、論理的に矛盾する事であろうか?非常に難しい問題ではある。しかし、世界全体に対してNPT体制の維持を訴えながら、同盟国であるアメリカの核廃絶も訴えると言う事を並行的に行えば、基本的に矛盾するとは思えない。むしろ問題なのは、インド・パキスタンの核保有や、イスラエル・イランなど中東での宗教対立から起因する民族・国家対立のための自衛や抑止のための核保有を、ある意味関係の無い日本がどこまで踏み込んで行く意志があるかと言う事である。日本にとって中東は原油調達の拠点となっており、煙たがられる存在にはなりたくないのは致し方ない事実であろう。しかし、明確な信念に基づいて、言うべきは言うと言う姿勢を取ることは、国際社会から一定の評価を受けられるものと考える。そして、最後の技術保有である。これも非常に難しい問題ではあるが、核兵器には抑止力という側面と破滅的戦争を引き起こすという側面と両方あるが、技術保有という状態は、前者の効果を一定程度担保しつつ、後者まではすぐには行き着かないという歯止めがかかっていると言える戦略ではないだろうかと思う。技術保有のレベルについての詳細な議論は別途必要となるが、概念としての技術保有戦略は検討の余地があるのではないかと思う。